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タウンデータ |
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■鹿児島県における本地区の構成 |
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本地区は、薩摩半島の北西部に位置し、県本土区域と、上甑島、中甑島、下甑島で構成される甑島区域で構成されています。 |
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■本地区の歴史 |
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西は東シナ海に面し、東は九州三大河川「川内川」流域沿いに広がる本地区は早くから水陸交通の要として栄え、薩摩の中心地として発展してきました。また、「古事記」「日本書紀」に記された神話に登場するニニギノミコトの御陵といわれる可愛山陵があります。 |
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平安時代まで |
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本地区には旧石器時代から古墳時代にかけての人々の生活の営みの跡をしめす遺跡もあります。
702年(飛鳥時代)には南九州の律令政治の拠点として、薩摩国府(薩摩国の役所)が設置され、741年に発布された聖武天皇の詔により薩摩国分寺が建立されました。700年代前半には「泰平寺」「新田神社」も建立されたといわれています。
764年には万葉集の歌人として名高い「大伴家持」が薩摩国府の守(長官)に任命されました。また平安時代の学者で政治家であった菅原道真が大宰府に左遷された後、密かに薩摩にくだり、東郷町の藤川で余生をおくったとも伝えられ、その藤川に行く途中の川内市湯田町や東郷町には、道真公にまつわる伝説が残されています。
また続日本紀には、630年〜894年にわたって行なわれた遣唐使の第14次遣唐船が帰り暴風にあい、第1船・第4船が甑島に漂着したと記されています。 |
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参考文献:墨絵せんだい歴史絵日記、川内市歴史資料館、甑島観光協会
画像提供:川内市歴史資料館、東郷町 |
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可愛山稜 |
薩摩国分寺復元予想模型 |
藤川天神(菅原神社) |
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鎌倉時代〜室町時代頃 |
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鎌倉時代から南北朝初期は、相模国(神奈川県)から渋谷一族が薩摩国(鹿児島県)に移住し、この地区の名前を取り、東郷氏・祁答院氏・入来院氏・高城氏・鶴田氏と名乗り各地を統治しました。1570年東郷氏・入来院氏が領土を島津氏に献上し、その後は島津氏の統治となりました。
※鎌倉時代〜明治維新まで入来院家と分家に伝えられた文書は、米国エール大学教授朝河貫一博士の著書「入来文書」(THE
DOCUMENTS OF IRIKI)で学会に紹介されました。東洋での封建制度を知る上で世界的に最も貴重な文献として知られています。またその内容は、綸旨、幕府の領地任免状、豪族間の契約書、訴訟関係などの500余となっており、欧米歴史学者に、日本の封建制度が西欧に劣らず水準の高いものであったことを認識させるもとになりました。
2度の元寇の際は九州の御家人たちがその防備につきましたが、甑島の将士も活躍したといわれています。また元の軍船200隻ほどが甑島近海に現れ、うち1隻が近接したとも言われています。
承久の乱(1221年)のとき功績のあった小川太郎季能(すえよし)は、その働きが認められ、甑島領主地頭として甑島と熊本県益城郡の一部を与えられました。その後室町時代、その子小川太郎季直(すえなお)が甑島の旧勢力を制圧、亀城を築き、以後13代370年にわたって島主として甑島を支配しました。 |
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参考文献:墨絵せんだい歴史絵日記、入来町、里村、甑島観光協会
画像提供:入来町、里村 |
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安土・桃山時代頃 |
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1587年、本地区は豊臣秀吉の九州征伐(薩摩侵攻)の舞台になり、和睦の儀が泰平寺にて行なわれました。この時の住職・宥印法印(ゆういんほういん)のエピソードはあまりにも有名です。また各地に秀吉に関する様々な逸話が残されており、川内はんやまつりの武者行列では豊臣秀吉の九州征伐における、泰平寺での島津義久と秀吉の和睦を史実に基づき、再現しています。
その後の朝鮮出兵では、島津軍は久見崎軍港より出帆しましたが、兵士の士気を高めるため、古くからこの地域で行なわれていた綱引きを行いました。川内大綱引はこれに由来するといわれています。 |
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参考文献:墨絵せんだい歴史絵日記
画像提供:アクアフロント推進協議会 |
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キリスト教の伝来 |
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1602年には薩摩藩主・島津忠恒(ただつね)の招きに応じて、マニラのドミニコ会スペイン人神父フランシスコ・デ・モラレスなど5人が、船長レオン喜佐衛門の案内で甑島に来航し布教活動を行ないましたが、その後川内市京泊に移り、1606年日本で最初の教会の一つといわれる京泊天主堂を建てました。
キリスト教弾圧が始まると、平佐北郷(ほんごう)家家臣レオン七右衛門が、1608年薩摩におけるドミニコ会最初の殉教者となりました。
また下甑村手打の西海岸を一望できる釣掛崎では、1638年頃にキリスト教信者が捕らえられ処刑されたと言われています。
このような状況下、信者が密かに祈りをささげたという「キリシタン燈篭」、信者を見つけ出す手段として踏ませた「ロザリオ聖母踏絵」なども残されています。 |
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参考文献:墨絵せんだい歴史絵日記
画像提供:下甑村、川内市歴史資料館、アクアフロント推進協議会 |
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江戸時代 |
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近世に入り、17世紀初頭から19世紀末までの時期は、川内川を利用した物流が最も発展した時期でした。河口の久見崎には藩内最大級の港があり、川内川を通じて運び込まれた物資がここから大きな船に積み替えられて運び出されたり、逆に外からの物資がここで小さな舟に積み替えられてかなり上流まで運搬されていたようです。当時の川内川は、各種運搬船や商人の舟、渡し舟などが頻繁に往来していたようです。また流域沿いの地域では三斎市や四日市などの市が立ち並び、にぎわいをみせていたようです。
水上交通の拠点であった久見崎には、藩の軍港管理所「舟手」が置かれ、この地で代々船大工を務めた樗木家(おうてきけ)には貴重な造船関係資料が伝えられており、「船大工樗木家関係資料」として国の重要文化財に指定されています。 |
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参考文献:墨絵せんだい歴史絵日記
画像提供:川内市歴史資料館、アクアフロント推進協議会 |
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川内川 |
船大工樗木家関係資料 |
川内川河口(久見崎) |
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明治以降 |
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薩摩のボッケモンとして名高い岩谷松平(いわやまつへい)は、キセル煙草に代わるものとして発売した葉巻煙草・紙巻煙草が奇抜な広告方法とあいまって旋風を巻き起こし、明治の煙草産業に君臨した人物です。東京銀座に構えた「岩谷商会本店」は、屋根から柱・壁まで真っ赤に塗られ、店頭にはいくつもの大天狗面が掲げられ、本人も赤マントに赤い足袋で赤い馬車を乗り回し、大声で宣伝して回って人々の度肝を抜いたことから、「近代日本のPRの父」ともいわれています。広告のシンボルとして使われた天狗の面は、新田神社の所蔵する猿田彦の面にヒントを得たといわれています。
川内市出身の有島武の長男・武郎(たけお),次男・生馬(いくま),四男・里見ク(さとみとん)は,大正・昭和の文壇・画壇で活躍し,郷土ゆかりの「有島芸術三兄弟」として親しまれています。
長男有島武郎は武者小路実篤・志賀直哉らの発行した雑誌「白樺」に参加し、小説「カインの末裔」が出世作です。特に小説「或る女」は最高傑作といわれ、野性的な情熱に満ちたヨーロッパ文学の香り漂う作風で知られています。一方では「一房の葡萄」など、あたたかい愛情に満ちた童話なども手がけています。
次男有島生馬(本名:壬生馬)も雑誌「白樺」で作家として活躍しましたが、のちに美術に深い興味を持ち、鹿児島出身の藤島武二に師事して、画家としても成功しました。二科会・一水会の創設にも携わったほか、帝国美術院会員・芸術院会員・日展理事なども務めました。川内市歴史資料館が所蔵する油彩画「江南の春」は1939年のニューヨーク万博に日本の代表作として出品されました。
四男里見ク(本名:山内英夫)は兄達同様、雑誌「白樺」の出版に参加しますが、のちにこれを離れ、久米正雄・吉井勇らと「人間」を創刊し、独自の「まごころ哲学」を明確にしました。代表作は「善心悪心」「安城家の兄弟」「極楽とんぼ」などで、つやのある文体・手法による大衆性のある純文学が里見文学の魅力といえます。1983年、里見家から川内市平佐西小学校へ「慈眼観」の書が贈られ、これをもとに翌年石碑が建てられました。「慈眼観」とは、仏教用語で「いつくしみの目ですべてをみること」「天地にあるすべての物や人を愛して大切にすること」を意味し、里見クの「まごころ哲学」を象徴する言葉です。
また一円均一いわゆる「円本」で世間の注目を浴び、また文庫本の先駆けをなした十銭の「改造文庫」を売り出した、出版社「改造社」の山本實彦は、多くの文人を川内に招待し、与謝野寛(鉄幹)・晶子夫妻もこの地を訪れ、屋形船で川下りを楽しんだりしました。二人は霧島や指宿・出水・宮之城なども訪れ、旅の間に詠んだ歌は、二人歌集「霧嶋の歌」に収められています。 |
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参考文献:墨絵せんだい歴史絵日記
画像提供:川内市歴史資料館、平佐西小学校 |
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