「平成14年12月15日(日)に開催した
市町村合併講演会の内容(全文)を掲載」しました。 |
平成14年12月15日(日)シーサイドガーデンさのさ(串木野市)にて開催した市町村合併講演会の内容(全文)を掲載しました。
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講師: 兵庫県篠山市 まちづくり推進課長
森本 繁 氏
演題:『篠山市の合併とまちづくり』
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川西薩地区任意合併協議会 「合併講演会」要旨 |
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篠山市は、平成11年4月1日に多紀郡の篠山町、西紀町、丹南町、今田町という4つの町が合併し、人口4万7,800人、面積は377.61平方キロで、兵庫県では神戸市に次いで2番目に大きな面積であり全国では671番目の市として誕生した。
西暦1609年、関ケ原で勝利した徳川家康が、篠山に城を築き、明治まで徳川家譜代の青山家が引き継いだ篠山藩が、現在の篠山市である。
明治22年に町村制が敷かれ、1町18カ村に、昭和30年には、昭和の大合併により、篠山町、城東町、多紀町、西紀町、丹南町、今田町の6町に再編した。その後、多紀郡の合併について、昭和33年から昭和50年まで5回にわたって合併議論をしてきたが、いずれも庁舎位置の問題、財産問題、町名の問題などで合併に至らなかった。
昭和50年、東部の篠山町、城東町、多紀町が合併して、篠山町が誕生し、それ以降は篠山町、西紀町、丹南町、今田町の4つの町となり、し尿処理、ごみ処理、消防などは4つの町で広域行政をやってきた。
その後、平成9年大阪駅からのJR複線化により大阪から1時間以内の通勤圏内となり、人口増加から、水不足、ごみの処理能力不足などたくさんの広域的な課題が発生し、このような広域的な課題をどう解決したらいいかということで議論した結果4つの町はひとつになるべきという結論に達した。 |
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合併の記録「篠山市」誕生 |
過去5回の失敗を生かし、合併の形式、合併後の町名、合併の期日、庁舎の位置、財産の取り扱いについて最初に整理した。特に財産問題、財政問題については、お互いに相手の町の山が多いとか少ないとか、財政がよいとか悪いとかいうことで過去5回の合併議論を失敗してきた苦い経験から、合併をするなかで借金も貯金も持ち寄るということを理解しなければ合併は無理であると感じた。
住民への説明は「皆さん、どう考えられますか。」ではなく、「合併は必要です。合併について理解をしてください。合併したら、こういうまちづくりを進めます。」と新市の構想を含めて説明した。
事務調整は、基本的に「住民サービスは高く負担は低く」という基本原則のもと調整した。新市の名称も決定まで長い時間が掛かり困難な問題となった。対等合併の「対等」の意味についても議論があったが、対等とは、住民一人一人が対等であるという考え方で整理した。
合併した結果、ひとつの町ではできなかった広域的な課題の早期解決や道路整備など広域的な視点からのまちづくり、観光行政、特産品の振興、行政基盤の強化が図られた。
合併議論は、我がまちにとって損か得か、それについては、受け入れるか受け入れないかの議論になるが、そうではなく、合併するのであれば、将来は、そのまちと向き合い、住まなければならず、新しいまちにとって損か得かの議論であるべきだ。
お互い譲り合いの精神がなかったら合併は無理である。合併は、非常に神経質な話なので、お互いに思いもあるが、相手のことも十分聞くことが大事であり、また相手のことを尊重することも大事である。
合併をすればすべてが可能である、すべてが良くなるということでなく、合併すれば厳しい部分もあるが、マイナス面、プラス面というミクロ的な発想ではなくトータル的な、マクロ的な部分の中で将来の地域のあり方や行政のあり方を議論しなければいけない。
合併したからすべてが解決したということではない。合併後の課題もたくさんある。しかしながら、小さいときにはなかなかできなかったことが大きくなったことでできたこともたくさんある。マイナス部分は、課題として解決できる。 |
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篠山市のホームページ |